フフホトへ   

北京首都国際空港、かなり大きな空港だったが早雨漏りがするようだった フレーバー タング、ここで関西部隊と野村さんば合流、計10時間を過ごした 
 予定の17:25が遅れるとのこと、結局2時間遅れで出発したがフフホトで降りられす、一旦北京に帰って再度フライト、23時にフフホトに到着
 
ホテルに隣接するグランドは公園かと思っていたら内モンゴル農業大学だった、早朝から市民が運動をしていた 
   
フフホト市の都市計画館(Planning Exhibition Hall) 都市の歴史と今後の展開を示す立派な施設は上海にもシリンホトにもある 
   
都市の1/800の模型、都市の歴史、保全エリアの模型などなとが展示されている。右は河川沿いのPlanning intention map plan 
急遽、市の都市計画局副局長が駆けつけて市の都市計画についてお話をされ、質疑応答も実現して内容の濃いい訪問となった 
自宅に帰って昼食を取る習慣があり、通勤と昼と夕方の三度の交通渋滞があるという。右はオリンピックの聖火が通った道路 
 昼食のあと、内モンゴル大学でのセミナーまでのひととき、まちを散策した。
中層の住宅はきれいに住まわれているようで、何しろ想像以上の大都会である 
   
中国の都市計画
 フフホト市都市計画局副局長から、モンゴルの歴史ときょうみある都市計画の現場の話を聴くことができた。

 1976年に中国当局の司令で全面的なマスタープランが策定され、これが国の承認を受けたのは79年、承認までに足かけ4年かかっている。この計画では旧市と新市の間を中山道で繋ぎ、東は規制をして西は自由に発展させる構想となっている。
 1996年から第2回のマスタープラン策定が行われ、これは1999年に承認を得た。これは東優(空港)、西連、南抗、北規制を掲げているという。1990年代に中国が市場経済への移行が顕著になり1990年台末期に不動産業が発展し、汚染(環境)の問題が発生。2003年に新しいマスタープランが策定されたという。
 この中では、交通問題解消のために中心を一つとしないで東と南に分散して快適交通で結ぶことを目指している。
 2002年に110万人であった人口が、2010年に205万人になった。全国の農村から来て、都市建設に携わったひとたちが定住したためである。人口が急増する中で、都市交通としての鉄道が望まれているが、資金、技術の面の問題で実現に至っていない。

 中国の都市計画の基準では、公共施設を入れたグロス面積で戸あたり96〜120uの都市建設用地に決められている。また、幹線道路は800〜1200m間隔で、補助道路は300〜500m間隔に敷設することが決められているため、どこの都市計画も同じようなものになってしまうと言われていた。
 都市計画への住民参加については、第1回では市民参加の制度はなかったが、2回目からメディアを通じてパブリックコメントにより住民参加の制度を設けているとのことであった。

   
下はホテルでもらった付近の地図、このグリッドが国の基準なのだと思う。1ブロックを歩くとつかれる。 
 
 


inserted by FC2 system